この『空想から科学へ』は戦後、マルクス主義の研究をやる場合に、最初に手がける文献であって、多くの人が、十代の後半期に難しいなといいながらかじりついた経験を持っていると思う。その意味で、マルクス主義をひとつの人生論としていかに武器にするのか、ということでもこの『空想から科学へ』は勉強されなくてはならない。その問題意識を不断に掘り下げていかなくてはいけない。なぜ、社会主義が科学になったというのか、その中に含まれている実践的な意味、闘い抜いて、生き抜いていく意味、これをしっかり把んでいかないと間違った読み方になる。
『空想から科学へ』というこのテキストを勉強する場合に、同時にイギリス版に付した「史的唯物論について」というこの長い序文を必ずきちんと読まなくてはいけない。さらに、ドイツ版から始まってイギリス版にも付録として付されている「マルク」、これも必ずきちんと読まなくてはいけない。この二つを含めて、『空想から科学へ』は何であるのか、ということを問うていかなくてはならない。
本文だけに集中すると、たとえば黒田寛一のように間違った読み方をする可能性がある。黒田は本文の中の「生産の社会的性格と領有の資本主義的私的性格の矛盾」を中心にして、エンゲルスによるマルクス主義の歪曲ということをガナりたてている。しかし、この三つを通して理解するならば、それはとんでもない見当違いだという事が自ら浮かんでくる。
この三つの全体の趣旨は、エンゲルスがその序文に書いている「史的唯物論の擁護のために」ということだ。人間が生きていく長い歴史的な系列、自然と人間の長い歴史的な過程で、生きかつ闘い抜いてきた、その唯物論を擁護するために、と。
この事がもっている今日的な意味、これをしっかりおさえておかなくてはいけない。たとえば、現状の分析についても、経済学的現状分析だけではダメである。生き抜いていく核心点を生き生きと把み返すということについてはいまだ抽象的である。同時に歴史史学的な現状分析でなくてはならない。そうしないと、労働者ひとりひとりがいかなる歴史的な存在様式として生きているのかという全部は把めない。一人一人の労働者の背後にイエという独自の歴史的な家族形態がある。さらにムラやマチという自らが出てきた、その共同体の性格を背負って生きている。その歴史的な差別性も含めて生きている。ここから抽象して個人の領域での結合をいくらいっても、足をすくわれる。
そういう意味で、このテキストに即して、主要な問題点を深めていきたい。
まず、第一に、三つの章からなる本文、この中身の中心的問題。それから第二に、長い序文である「史的唯物論について」の中心的な問題。そして全部に関連する付録の「マルク」。マルクというのは、ゲルマンの長い歴史の中で、土地について共同耕作の時代があるという、エンゲルスがマルクスと共にマルクスが死ぬ直前の八十年代に集中した問題である。
第一の本文については、主要に三つを問題にすべきだ。第一章では〈真理とは何か?〉という問題、空想的社会主義者は「永遠の真理」とか「絶対的真理」というが、と。それをさらに言うと、人間が真理を把みとるという時に、どういう認識根拠をもって真理を把みとるのか。つまり、思想性とか政治性とかは何に照らし出されて、真理として把み返されるのか、という問題である。これが第一の問題。
第二には哲学とは何か、科学とは何か、今までの長い哲学の歴史はどうなっていっているのか、そういう問題だろう。
第三の問題はこの第三章の中心の問題で、「生産の社会的性格と領有の資本制的私的性格との矛盾」についてである。
この全部を貫く本文の根本問題は、一言で、史的唯物論での社会性とは何か、という問題だ。人間が生き、モノを認識し、闘い抜いていく歴史的な社会性とは何か、今日我々の生きている条件のところに存在している社会性とは何か、そういうのが本文の中心問題だ。
それから、なぜそういう趣旨の本文であるのかということを明らかにする作業として、長い序文である「史的唯物論によせて」がついている。この長い序文の趣旨は人間が生きていくための宗教、その宗教を批判する中で史的唯物論はいかに成立してくるのかということである。この一点に集中して長い序文がついている。マルクス主義が成立するためには、宗教を内面的に真剣にいかに把み乗り越えるのか、という闘いをもっている。そして生きぬくための実践的唯物論が成立する。それを擁護するのだといっている。
それから、三番目の付録の「マルク」。何故、「マルク」を付録として付すのかという趣旨はイギリス版の序文にはっきり書かれている。
「付録の『マルク』は、ドイツおける土地所有の歴史と発展についての若干の基礎的知識を、ドイツの社会党の中で広める意図で書いたものである。これは、都市の労働者を同化させるという同党の仕事がかなり完成の域にちかづき、農業労働者と農民を獲得するべきときだっただけに、とりわけ必要だと思われた。この付録をこの翻訳の中におさめたのは、すべてのチュートン[ドイツ語版では―ゲルマン]種族に共通な土地保有の原形とその衰退の歴史は、イギリスではドイツでよりもずっとわずかしか知られていないからである。私は、最近、マクシム・コワレフスキーが提唱した仮説にはふれないで、テキストをもとのままにしておいた。この仮説によれば、耕地や牧草地がマルクの成員たちのあいだに分割されるよりもまえに、それらは(今なお存在している南スラヴィアのザトールガ[世帯共同体]が例証しているように)数世代をふくむ大きな家父長制的家族共同体によって共同計算で耕作されていたのであるが、のちになって、この共同体が大きくなって共同計算で経営することが不便になったときに、分割がおこなわれたというのである。コワレスキーの言うことはおそらくまったく正しいであろうが、しかしこの問題にはまだ決着がついていない。」
史的唯物論をなぜ擁護するのか、そしてどのような作業をしなくてはいけないのか、ということを端的に要約している。
この把み方は、たとえば日本史の総括にとっても、講座派史学を中心にして追い求めている核心的問題でもある。
エンゲルスはこの論文と並ぶような『家族・私有財産・国家の起源』を書いている。この『起源』は、晩年のマルクスが八〇年頃にモルガンの「古代社会」、アメリカインディアンの研究を読み、そのノート――普通、「古代社会ノート」と呼ばれる――を残したが、それを使って、エンゲルスがマルクスの遺言をなしとげるということで書かれたものだ。『起源』の初版が出される時点では、このコワレフスキーの見解というのはまだなかった。第四版に、コワレフスキーのこの〈家族共同体〉(別の訳では〈世帯共同体〉、日本史学ではこう使うことが多い)、ザドールガというのがでてくる。ここでは南スラブと書いているが、普通これは『起源』の中にも出てくるように、ハンガリーの家族の形態―大家族。単婚家族は極めて最近のことである。その前はもっと大きな血族的な大家族であった。
そして日本の場合にもこの大家族をここにでてくるザドールガと同じものと理解されている。古代的な大家族からいかに単婚家族として家が成立したのか。日本史学は大家族をザドールガで理解し、そしてその世帯共同体はいつ頃成立してくるか、ということで日本の共同体のあり方を追う。家族共同体=世帯共同体=大家族、そしてこれは日本でどういうふうに国家が成立してくるのかと関連している中心問題です。
このコワレフスキーの世帯共同体をいかに把むか。エンゲルスはコワレフスキーは全く正しいと思うが、しかしまだ問題は残されている、と繰り返す。『起源』の第四版にはコワレフスキーの見解が出ている。「マルク」ではそれにふれていない。そして「マルク」はもとのままの表現にしておく、と。
史的唯物論が、なぜ、どのようにこれを問題にしていかなくてはいけないのか。なぜ「マルク」を付録【と】して付すのか。ドイツにおける土地所有の歴史と発展に関するこの論文を、農村を背景にして成立している都市の労働者がなぜ知らなくてはいけないのか。「マルク」の最初のところでこういっている。
「人口の優に半数が今なお農耕で暮らしを立てているドイツのような国では、社会主義的労働者は、そして彼らをつうじて農民もまた、今日の大小の土地所有がどのようにして成立したかを知っておく必要がある。」
すなわち、分割されたせまい土地を自分の土地として家族で耕し生きているドイツ農民に対して、ドイツの労働者及びその労働者を通じて農民たちに、土地は共同体が所有した時代があるということを、土地を共同で所有し共同で耕作した長い時代があるということを、その解体の中から私有財産としての土地があらわれてそれにしがみついて家族が生きていくという長い歴史があるということを、そして労働者はそれから追われて労働者になったということを、そして次の時代は高い次元で古代の共同体が復活するであろうということを、こうした歴史観を教えるのだ、それを把みとらなければいけないのだということである。
これが、「マルク」をなぜ、『空想から科学へ』の付録として付さなくてならないのかという理由である。つまり、共同体、共同耕作、共同労働、それの歴史とそれの復活、これが第三の主要なテーマである。
もう一度要約すると、『空想から科学へ』の主要なテーマは大きくは三つあげることができる。一つは労働者にとって歴史的な社会性とは何か、ということ。第二は、そういう実践的史的唯物論はいかに宗教を内面的に問題にし、それをのりこえて成立し、いかに生きぬく精神的な観念形態としてにぎりしめたのかという、実践的史的唯物論にとっての宗教の問題。第三の問題は、労働者にとって歴史的に共同労働の時代があり、次は農民を含めて共同労働の時代がある、目の前に迫っているんだということ。
そして、これ全部が史的唯物論の擁護のためにということに貫かれている。このことが重要だ。
この『空想から科学へ』の本文は、三章の構成になっている。これは『反デューリング論』の三つの章を特別に独立の論文としてまとめたものである。『反デューリング論』は、デューリングという学者が、ドイツ労働者の中に急速な影響力を広げたという状況の中で、ドイツ社会民主党はエンゲルスに、批判の執筆を依頼する。そしてエンゲルスはマルクスの前で、草稿の段階で読み上げたといわれている。そういう作業をしている。これはしっかり留意してなくてはいけない。
さらに『反デューリング論』は大きく三部構成になっているが、第二部第一〇章、史的な学説批判では、これはマルクス自身が書いている。
そして『反デューリング論』の序説の第二章は、『空想から科学へ』の第一章、それから第三編の第一章「歴史について」、第二章「理想について」、この三つをもって構成している。この本文の主要テーマは、さらにこの三章編成に則して、三つに分けることができる。
第一章の中心的テーマは真理について。真理はいかにして人間が把みとるのか、いかなる歴史的根拠の上に把みとるのか。思想性とは何か。政治性とは何か。何をにぎりしめて生き抜くのか。いかに真理を把むのか、いかにして科学になったのか、これが第一。
第二は諸科学の上に立って考えられた哲学とはなにか、どうなるのか。全歴史と全世界を総括しているとしてあらわれた哲学は、その科学にとってどうなるのか。史的唯物論にとってどうなのか。これが第二章の中心テーマ。
第三は、資本主義の根本矛盾は何か。エンゲルスはそれを「生産の社会的性格と領有の資本主義的私的性格の矛盾」、こういうふうに把む。しかし、これをいかなる意味で、いかなる注意をもって把み返さなきゃいけないのか、これは第三。
それ全部を総括すれば、労働者にとって歴史的社会性とは何か、ということです。
☆
第一章のしめくくりのところでこういっている。「空想的な社会主義者たちの考え方は、一九世紀の社会主義的見解をながいあいだ支配してきたし、部分的にはいまでも支配している。ごく最近にいたるまで、フランスとイギリスの社会主義者はみなこの考え方を信奉してきたし、ヴァイトリングをもふくめての初期のドイツの共産主義もまたこの考え方に属していた。彼らのすべてにとって社会主義とは、絶対的真理、理性、正義の表現なのであって、ひとたび発見されさえすれば、それ自身の力で世界を征服することのできるものなのである。絶対的真理は、時間、空間、および人間の歴史的発展とはかかわりのないものであるから、いつどこでそれが発見されるかは、まったくの偶然でしかない。」
ここで注意しなくちゃならんのは、絶対的真理は、それが発見されるか、いつ発見されるか、どこで発見されるかということは、空想的社会主義者にとっては、単なる偶然事であるといっている。しかし、空想から科学へ、科学になるということは、そうではないんだ。「社会主義を科学にするためには、まずそれを実在的な基盤の上にすえなければならなかったのである。」と結んでいる。これはどういう意味か。階級闘争――この条件なしにこれは認識できなかったんだ、真理として把みとるということはできなかったんだ、こういっている。これを明確にしなくちゃいけない。
マルクスは人間の意識、理論、認識をこういうようにいう。「人間が現実との衝突を意識して闘いぬく形態としての観念諸形態」(いわゆるイデオロギー)。
そしてこの『空想から科学へ』の出だしがこうなっている。「現代の社会主義は、その内容からいえば、なによりもまず、一方では、今日の社会にひろく存在している有産者と無産者、資本家と賃労働者との階級対立を、他方では、生産の中にひろく存在している無政府状態を、認識することからうまれたものである。」 この「認識」あるいは「観察」という、これはどこにかかるのかというと、「生産の中にひろく存在している無政府状態」だけではない。「一方」「他方」両方を「認識」としてしぼっている。「資本家と賃労働者との階級対立」の「認識」もある。「認識」は両方にかかる。つまり社会主義は、ここでは労働者が資本家と闘うための、生き抜くための、闘い抜くための認識としている。認識としている。その意味では、プロレタリアが握りしめなければならない観念諸形態とは何か、そういう問題だ。
自分が一進一退し、いかに生きるか、いかに認識するか。そういう認識の、真理の根拠とは何か、ということで、階級闘争をあげている。階級なるもの、階級の闘い、それが認識の結果ではなくて、その闘いを根拠にしてはじめて真理が、生ける真理が言えるといっている。こういう現実的地盤のうえにはじめて、空想から科学になっていくんだといっている。もっと厳密にいうならば、階級闘争、階級形成、この条件なしには社会主義、科学的社会主義は成立しなかったんだといっている。それをもっとしぼっていえば、これは単なる闘いではない。人間が現実との衝突を闘いぬく形態というのは、単なる個体と、むこうにあるもうひとつの個別的なものだけではない。人々が生きている背後での階級闘争、それは労働者がなんども引きさかれながら、何度も結合への努力をするという、社会的結合への欲求、それが根拠になって認識できるんだ、この章はそのことをいっている。これを根本的に把み出さなければいけない。
マルクスは、――この論文はエンゲルスの著作で、マルクスとエンゲルスはどのように一致しどのように違うのか、ということで何度も問題にされる文章ですので、できるだけマルクスと対照させながらテーマを見るということをする必要がある――この問題をどう把んでいるのか。マルクスの若い頃、自分を形成していくもっとも生き生きとした純粋な頃、あの『経済学・哲学草稿』の中に、この問題について次のように書いてある箇所がある。マルクスはドイツから出てはじめてフランスに行って、フランスの労働者の生き生きとした姿に衝撃を受けて、自己が目覚める。忘れてはならないのは、マルクスは目覚めさせられた人であって、人をただ目覚めさせたのではない。その箇所は次のような叙述になっている。
「共産主義的な労働者が団結するばあい、さしあたりの目標は説教や宣伝やその他である。けれどもそれと同時に、かれらはそれらをとおして、ある新しい欲求を、社会的結合の欲求を自己のものにする。手段として現象する当のものが目的になったのである。フランスの社会主義的労働者が団結しているのを見るとき、われわれはこの実践連動の最も光輝ある成果をまのあたりに見ることができる。喫煙、飲酒、食事その他のものは団結の手段ないし団結させる手段として存してはいない。結社や団結や、結社を目的にする懇談会などが、彼らのもとにはありあまるほどある。人間の友愛は空文ではなく、かれらのもとでは真実である。人間性のけだかさが労働によって硬化した彼らの容姿から光となってさしいでて、われわれを照らすのである」(青木文庫)。
これがマルクス主義の成立の姿である。別訳ではこうなっている。
「共産主義的な職工たちが団結する時、彼らについてさしあたり目的となるのは教説、宣伝、等々である。しかし同時に彼らはそれを通じて一つの新しい欲求を、社会的結合の欲求を我がものとする。手段として表れているものがいまや目的となったのである。社会主義的なフランスの労働者たちの集会しているのをみるならば、こうした実践的運動がその最も輝かしい成果において観察できるのである。喫煙、飲酒、食事等々は、そこではもはや結合の手段あるいは結合させる手段としてあるのではない。社会的結合、団結、また社会的結合を目的とする楽しい懇談が、彼らには十分にある。人間の兄弟のような愛は彼らにあっては空文句ではなく、真実であり、そして人間性の気高さが労働によって頑丈になった人々のうちから、われわれに向かって光を放っている」(岩波文庫)という、こういう表現。
エンゲルスの『空想から科学へ』の最初の問題の立て方は、真理とは何か、そして、それはただ偶然的に、いつ、どこで発見されるかは偶然であるというのか。社会主義へ向かっていく人間の意識は、百年前か、五百年前か、誰か偉大な人間があらわれて、ぼんと認識すればそれでよい、また認識できるんだ、そんなものではない。労働者が必死に、何度も引き裂かれながら、社会的結合の努力をしている、そこを根拠にしてはじめて真理が把めるんだ、科学になれるんだ、こういうことをいっている。そこに深いマルクスとエンゲルスの一致を把んでいかなくてはいけない。
エンゲルスの表面づらから、マルクスとエンゲルスの長い苦しみと、憎しみも含めた関係を理解しなくちゃいけない。マルクスとエンゲルスの関係は、単に理想的な、共同作業のモデルのような、一面的に結合している姿では絶対にない。そりゃマルクスとエンゲルスのあいだには必死の闘いがあって当然だ、しかしまた必死の協力をしている。その深みで、この論文を読まなくちゃいけない。表面づらで、マルクスのエンゲルス的歪曲をという、憎しみの哲学をいったって、それは個体的な憎しみの哲学であって、生ける社会性はない。ダメだ、黒田は。黒田の底は見えてる。マルクスとエンゲルスをそんなにしか理解できないのか、けちくさい、ケツの穴の小さい人間である。
さらにいえば、我々は、政治的戦略・戦術は全面的にそれは把まなくちゃいけないという問題意識をもっている。そこで全世界の人間の運命、日本の労働者だけじゃない、日本史の全人民の闘いの歴史を総括し、今日の日本の社会に生きている全部の諸人民の総括をやらにゃならん。その意味じゃ全面的な政治性をもたなくちゃならん。しかし忘れてならんのは、それによって労働者の自覚をうながすという場合に、そういう自分自身が何によって自覚をうながされたのかということ、何に照らされてオレは目覚めたのかということ、それが語れなくちゃいけない。
☆☆
二番目は弁証法、弁証法的唯物論である。「現代の唯物論は自然科学の最近の進歩を総括している。これによれば、自然にもやはりその時間上の歴史があり、天体も、都合のよい環境があるときその天体上に住んでいる生物の種も、ともに生成しまた消滅するのであって、循環は、一般にそれがひきつづきおこなわれうるかぎりでは、無限に大きくなる規模をとるというのである。どちらの場合にも、現代の唯物論は本質的に弁証法的であって他の諸科学の上に立つような哲学をもはや必要としないのである。それぞれの個別科学に対して事物と事物にかんする知識との全体的連関のなかで自分の占める地位を明らかにせよという要求が提起されるやいなや、全体的連関を取り扱ういっさいの特殊な科学はよけいなものになる。そのとき、従来のすべての哲学のなかでなお独立に存続しつづけるものは、思考とその法則についての学説――形式論理学と弁証法である。そのほかのものはみな、自然と歴史についての実証科学に解消してしまうのである。」
この箇所はエンゲルスの科学主義と理解されたり、エンゲルスの客観主義――その根のように理解されたりということで集中的問題となってきた。これを先程のようにマルクスに対照する。マルクスは、「人間についての科学が自然科学を自分のうちに包みこむのと同様に、自然科学は後には人間についての科学を包みこむであろう。すなわち一つの科学が存在することになるであろう」こういうことを言っている。そして、近代の自然科学について、「抽象的に物質的で、あるいはむしろ観念論的である」という言い方をしている箇所もある。
今でも、たとえば心理学、あるいは医学、さらに分化して歯学を入れたり、あるいは天文学、物理学、化学にしても工学にしても教えきれない程、分化している。この経験的特殊諸科学という、一つ一つが孤立的にその領域を設定して、その領域としてそれぞれ実体的な独特なものをたてて追求している。しかし、それら全部は相互の関連の中にある。その相互の関連の中にあり、相互の変転の中にあるんだということを忘れているならば、依然として全体的なものは哲学として向うになくちゃいけない。だから経験的諸科学の一つ一つが専門的で孤立的な状態にある限りは哲学の永遠の領土が成立している。全体については哲学が問題にする。ドイツ・ファシズムの成立する時期での実存哲学でいえば、ヤスパースという哲学者がいますが、哲学の永遠の領土とは何か、と。
それでエンゲルスは、こういう観念論哲学の最後の生き残りの場所としての歴史の領域、そこを唯物論は貫き通すんだ、と。そして、ここでエンゲルスは、その経験的特殊諸科学は、それぞれ自律的孤立的に問題を追及するということを止めて、それぞれが深い関連にあるということを意識し始めるや哲学としての哲学はなくなるんだと言ってる。こうして、思惟とその法則についての形式論理学と弁証法が残るだろう、と。
これは哲学がなくなるというのではない。哲学はやはりこのエンゲルスがこういうふうに言うように消えてゆくのではない。ということで黒田が経済哲学者・梯の経済哲学を評価して哲学者として現れる。自分をそう言う。このことは、人々が孤立的に存在し相互に孤立的に存在しているならば共同体的なものはその外にいつまでも手のとどかないものとして高く、そびえているという根本問題の上に成立しているということである。
しかしこの箇所で忘れてはならないのは、現在の全哲学が経験的個別的な特殊科学に、それだけになるといってるんではないということだ。それはエンゲルスを誤解するものだ。そういう孤立的な経験的特殊科学が否定されるならば、と言ってる。ということは、その否定されるならばという上に立って、しかし、それぞれの領域を設定し個別的である。そういうものに解消、それだけになるのかとというと、それ全部に共通の武器になるような形式論理学と弁証法だけは残るだろう、と。ここで思惟及びその法則としての弁証法、その読み方をまちがえてはいけない。これを誤ると単なる科学主義ともっとも抽象的な全体を貫いてどの領域でも必要な最も一般的な弁証法というものがボーンと浮かんでくる。エンゲルスはそういうことを言ってない。
ちょうどエンゲルスが『反デューリング論』を書く時期は、自然弁証法に集中している。自然について自然科学はどこまで到達したかということに集中していた。だから『反デューリング論』を書いた時期は、それを中断しなければならないからと、嫌々ながら書いた。こうしてエンゲルスは自然弁証法といわれる、その領域の著作を残している。
そしてもう一つは人間の歴史について、特にこのパンフにまとめられてゆく時期にはゲルマン史を研究している。ゲルマン民族の歴史に集中している。そしてこの二つの領域を貫いて、と言っている。
それを、スターリンはどう理解するかというと、弁証法という一般領域的なものがあって、他方で自然の領域と人間の歴史の領域がある。史的唯物論の領域と自然弁証法の領域があって、全部を貫く抽象的な弁証法、こういうふうにして弁証法というものの普遍性を言おうとした。
しかし今の文章の中にも、「自然科学は近代の進歩を総括して自然もやはり時間の中にその歴史を持つのであって」とこう言ってる。史的唯物論というものを誤解してはならない。史的唯物論ということと、弁証法的唯物論というのは、ここでは根本的に一つのこととして語っているということを忘れてはならない。人間と自然を貫いて。
人間の領域で史的唯物論、自然の領域で自然弁証法、そしてそれをさらに貫いた、抽象的に全部貫いたものとしての弁証法的唯物論、こういうふうな三つの構造でものを言ってない。弁証法的唯物論、史的唯物論という場合に根本的には一つだ。自然の歴史と人間の歴史と。普通自然は歴史と言いませんが、そこにおける史的なもの、それで史的唯物論の擁護についてのパンフレットだと言っている。へたに読むとほんとに科学主義になる。マルクス主義が成しとげようとし、根本的に立っている地平というのは全哲学は経験的特殊諸科学にそのまま解消するだろう、それだけになるだろうと言っているんじゃない。
賃金労働で言いますと、賃金労働が将来どうなるのか、という問題でもある。歴史的な現在の労働は、一つは支払い労働、もう一つは利潤になってくる不払い労働。あるいは必要労働と剰余労働。支払われるのは労働者が個別に生きていくために使う費用、個体、家族が生きていくために、賃金としてもらう労働。さらに支払われない労働として資本家のポケットに入る剰余労働、不払い労働をやっているというふうに労働が分割されている。これが今日の歴史的労働の本質ある。
将来どうなるのか。『資本論』の中でははっきりと、すべてが必要労働になると言っている。全てが、人間が生きていくための必要労働になる。そうすると、その外見だけから言えば、必要労働と剰余労働があって、剰余労働をポンと削り落として必要労働だけになると、こういうふうに聞いたら間違い。
だから経験的特殊科学があって、それの総括として現れる哲学があって、この哲学を削り落として経験的特殊諸科学だけが残るだろうといってるんじゃもちろんない。
労働でいえばどうなるのか。必要労働という事の概念の中に入る中身が歴史的に変わってしまうということだ。それはどういうことかと言うと、自分とその家族が生きていくための労働は、もちろん人間がやらなくちゃならない。将来、労働しない者はいなくなるだろう。これは文字通り徹底的に理解すべきだろう。人間は生れおちて、何らかの意味でみんな労働ができる。そして自分が生きる為の条件は自分が生産するということにみんな関る。そういう意味で一方では個体の維持として自分が消費するために必要なものは、ちゃんと社会から還元させる。いま賃金として、必要労働はこれだけを言っている。将来、社会の必要労働というのはそれだけではない。いまでは資本家のポケットの中に入っているもの、これを全部一人一人分けて、みんな食って消費してしまいましょと言ってるんでは全然ない。共同的な人間として生きていくために、共同的なものはいっぱい必要だ。これは全部個体が生きていくために必要なんだ。その労働を止めるんじゃない。全人口になった労働者が一人一人の生ける個体として、生きるための共同的条件、このための労働は、これも必要労働だと言っているのだ。他人に入るだけのそんな労働はなくなる。しかし共同体のための労働として、資本家のポケットに入っていた労働は、共同的なものとして復活するのだ、とり戻すのだ。
哲学の運命というのもそういうことだ。個別的な経験的諸科学、それが相互関連をもちだしたら、一つの科学となるだろう。ちょうど労働者が隣の労働者と社会的結合を示し始め、その努力が始まったら、もう向うにいわゆる国家はいらないという姿を見せだすように。
そして哲学としての哲学、残るだろうとここでいってる弁証法とは何か。人間が生きる為の実践的唯物論――そういう意味で読み込め。たんなる抽象的な1+2は3とか、その中で弁証法はどうなのかというものとして思惟があるんじゃない。エンゲルスを誤解するな、と。もっと深く読め。ここでいってる弁証法は全世界をいかに認識し、人間がいかに生き、いかに闘い、それこそ人間と自然を貫いて自然をいかに認識し、自然とも衝突していかに生きていくのかと、そういう実践的唯物論を語ってるんだと。必死の対立と必死の協力をしたマルクスとエンゲルスの深い意味が復活するだろう。そういうことを、ここの中に読み込まなければならない。
この第二章に、第一章で問題にした中心問題がもういっぺん繰り返されて、非常に絞られている要約があるので、そこに注意したい。つまり、「いまや社会主義はもはや、これやあれやの天才的頭脳による偶然的発見ではなくて、歴史的に発生せる二つの階級、すなわちプロレタリアートとブルジョアジーの闘争の必然的産物として現われるに到った。」この箇所である。認識の根拠、真理の根拠、思想の根拠、科学の根拠、これがこの要約である。
☆☆☆
第三章の中心の問題は、さっきの根本矛盾といってる箇所である。資本主義の根本矛盾として何度も繰り返されている。「社会的生産と資本制的領有との間の矛盾」とか、「衝突」とか、いろんな表現としてでてくる。生産様式、その中での生産力との衝突とか。
エンゲルスが、特にこの箇所はマルクスの成果として語っている。それをエンゲルスが理解したものとして語っている。何度もマルクスとエンゲルスの関係が問題にされる時の、特に中心的な問題でもある。やはりマルクスと対照しながらやらなければならない問題でもある。
マルクスは、――注意してほしいんだが――歴史的には個別的な小経営に対立して協業が、協業として資本主義が登場する、と言っている。つまり、資本主義が歴史的に登場してくる時には、小経営に対する協業そのものが現れる。人間が共同労働をする、一箇所の職場に集まって多数の人間で労働をするということは、歴史的には、農業でも工業でもみな、家族労働、個別的な小経営を基礎に成立している歴史的な前提があって、それに対立して、社会的労働という姿で現れる。
小経営において、耕す労働者、農民は自分の労働する土地を所有し、手工業をする労働者はその道具を所有する。そして、その手工業としての労働者はその道具を自分の肉体の一部とし、それを非有機的肉体とする。耕作する労働者はその農耕する土地を私有し、それを自分の肉体的条件とし、自立的人間として現れる。これが、人間が歴史的に、個別的に自立するということ。これが成立するためにはものすごい人類史がある。人類史の最後の所産として、私有財産という自己の私有するものをもって労働して、自分の生存、再生産を成し遂げている。そして歴史的には、これに対立するものとして、今のような姿の私有財産を引きつぎながら、自分の創造したものを握りしめ、かつ他人の労働を搾取する労働者になって、それで多数の労働者を指揮して共同労働、社会的労働が成立する。こういう構造で成立するんだということをエンゲルスは矛盾といっている。
この事はさらに、機械制の大工場の段階になると、マルクスは絶対的矛盾において把む。そのマルクスが絶対的矛盾といっている矛盾は、これとは表現がちょっと違う。それはどういう表現になっているか。
「近代的大工業の技術的基礎は革命的である。近代的工業は、機械・化学的処置・その他の方法によって、生産の技術的基礎とともに、労働者の機能および労働過程の社会的結合をたえず変革する。かくしてそれはまた、社会内分業をたえず変革し、一生産部門から他の生産部門へ、多量の資本および労働者を間断なく移動させる。したがって大工業の本性は、労働の転変・機能の流動・労働者の全面的可動性・を条件づける。他面、大工業は、その資本制的形態において、旧式分業をその骨化した分立性とともに再生産する。この絶対的矛盾は、……労働者階級のたえまない犠牲祭・労働力の際限もない浪費・社会的無政府性の破壊作用・において、荒れまわる」(『資本論』第一巻第一三章)
「近代的大工業の技術的基礎は革命的である。全社会の分業、社会作用を不断に流動状態のもとに叩き込む。不断の技術の革新は、社会的な人間の結びつきを動揺させ、新たな社会的結びつきを成立させる。そういう意味で革命的である。しかしこの大工場の資本制的形態のもとでは旧来の分業を骨化した分立性とともに、再生産する。この絶対的矛盾はたえざる労働者の犠牲祭を通して貫徹する」(『資本論』第一巻第一三章)、という表現になっている。
歴史的に登場してくる技術の本質、それと歴史的に存在してきている社会的な人間の結びつき方の関係、マルクスは別の箇所で自然発生的職業分化と言っているものである。長い歴史を通して町と村は分裂する。工業と農業という分裂、そしてそれぞれがそれぞれの共同体を持っている。町の共同体、村の共同体。その条件のもとで、農民は農耕する土地を事実上私有し、手工業をする労働者は自分の道具を事実上私有し、自立している。村の中での自立、町の中での自立。そしてさらにそれは工場の中では、一人ひとりの専門が分化する。そういう「旧来の社会的分業を骨化した分立性とともに再生産する」、こういう表現をしている。
エンゲルスのさきほどの言葉に対応させていえば、生産の社会性のところが技術で、他方、領有に対して分業ということ、所有と分業として対応させることもできる。
この箇所全部で忘れてならないのはマルクスのいまの表現にしてもエンゲルスのいまの表現にしても、この章の最後の結びの問題を貫徹するように把まないと、まちがった理解になってしまう。最後のところに注目してもらいたい。つまり労働者の社会性との対立ということである。これは国家とは何かという有名なエンゲルスの国家論の要約もしながらやっている。「従来、外部的な人間を支配する自然法則として人間に対立していた人間自身の社会的結合の法則は」、その箇所でもそうなっている。「人間に対立していた人間自身の社会的結合」これはまた、別の箇所で、「社会性との対立」と表現されている。
どういうことかと言うと、エンゲルスがここで展開しているのは、小経営に対して、資本制的経営は工場のもとに多数の労働者、他人の労働をする者たちを集め、資本家がそれを指揮する。さらにそれが進んでゆけば、資本家は自分で指揮する必要はない。労働者に指揮をさせ、資本家は遊ぶのが専門になる。賃金をもらう人間によって工場は全部展開される。このいわゆる生産の社会性と所有の資本制的性格の矛盾は、不断に社会性を貫いてさらに大きな株式会社へ。エンゲルスの目の前で進行していった、株式会社自身を――株式会社自身をマルクスは結合資本家といっているが――もっと越えた一産業部門を全部含むようなトラストへ。さらに国有財産へ。そういうふうに、不断に社会性を貫徹している。生産の社会性を貫徹している。しかし、多方で全部これは、私有財産の条件枠のもとでだと、こう言っている。
これの読み込みのまちがいから、ドイツでも、あのファシストが登場する直前に、生産がますます社会化される、これは進歩であるから反対できない。それをさらに進めることによって、社会主義に近づけようとする。ドイツの最初の合理化の中で、そういう把み方が現れる。「組織された資本主義は、社会主義に導く」、というふうになっていった。そして生産がどんどん社会化されて、あとは小さい最後の一撃をポンとくらえばもう社会主義だ、というかのようにこれは思われる。
ところがエンゲルスはこの最後の章で、この結びの大きな何節かを含めて、全力で、この社会性は労働者に対立しているんだということを書いている。これを読み込んでいない。エンゲルスのここでの展開は、特に私的所有の領域では、一つ一つの工場や企業は独立しており、資本家のものであり、そうするとその間で交換が行われるから、社会全体では無政府状態があって、社会全体が一つの生産組織になっているわけではない。
生産の無政府性。そしてこれ自身が労働者に対立しているんだということをずっと強調している。工場の中での労働する、その社会性自身が労働者に対立しているんだという箇所は、直接にはないから誤解のもとはないわけではない。しかし、『反デューリング論』のこれに続く章を見ると、都市と農村の対立、都市の労働者の肉体的健康の基礎が破壊され、農村の労働者の精神生活の基礎が破壊される。都市と農村の分離、町と村の分離、こういう社会では、土地、自然から、労働によって汲みあげたものは、次々と加工される中で都市という場所で棄てられる。土地は不断に疲弊してくる。棄てられる都市では病気が発生する。肉体的健康の基礎が破壊される。農村では、農業が技術的に発展すればするほど、少ない人口で全人口を養うような農産物が作られてゆく。農村では少しの人間が分散して存在していて、人間がそもそも精神的な健康を保つために必要な社会的連携という基礎が破壊され精神病が蔓延する。そういう問題をマルクスに忠実に叙述している。
この箇所は、『資本論』の第一巻第一三章第一〇節「大工業と農業」というところのことを展開している。そして「大工業と農業」の中にマルクスの次のような叙述がある。それは、「労働の社会的結合と技術は(別の訳では、「社会的生産過程の技術と結合は」国民文庫)土地と労働者を滅ぼすということによってのみ発達する」。土地、本源的に人間が生きていく大地、それがなければ人間が存在しない大地、その上に生ける人間が労働して、自己を再生産する、この本源的な自然である土地、これを滅す。そして人間自身も滅す。人間の自然的諸条件を摩滅させ、疲弊させるということによってのみ労働の社会的結合と技術は発達する。こういう対立である。
労働者の上に立ってる全社会性は、人間が生きる為の根本的な土地と、その生ける労働者自身を滅ぼすということによってのみ発達する。これに貫徹するように、このエンゲルスの最後の叙述を読まなければならない。そして、プロレタリア職場抵抗とは何か。いかなる社会性を取り戻すのか。そういうものとしてこれは読まなければいけない。これが、やっぱり第一章と呼応する。
大きな第二の問題は、圧倒的なキリスト教の人生観、歴史観、その中でいかに史的唯物論が成立するか。そして歴史的な階級闘争、階級というふうに労働者が結合してゆく一歩一歩の歴史に踏えて、人間はどのように宗教を内面化しかつ乗り越えてゆくのか、ということで史的唯物論の長い序文を書いている。それは三つの主要なエポックで階級闘争の叙述をしている。
一つは一六世紀はいうまでもなくドイツ宗教改革の時代である。この時の階級闘争にとって宗教とは何かという問題。一六世紀の一五二〇年代のドイツ農民戦争。エンゲルスは「芽ばえたばかりのプロレタリア的要素」と『ドイツ農民戦争』の中で書いている。
そして日本の歴史学も何度もこれを読み込んでいる。特に六〇年代以降の日本史学、特に講座派は「日本におけるドイツ農民戦争は何時か」と。
第二は、十七世紀のイギリス、いわゆるクロンウェルに時代、イギリス革命の時代。クロンウェル革命、ピューリタン革命といわれるイギリスブルジョア革命、その中での階級結合のあり方、宗教の位置、これをいっている。
そして第三のエポックとして一八世紀のフランス革命。
第一は若いエンゲルスが書いた『ドイツ農民戦争』を思い返して書いている。ドイツの中に自由な農民が一六世紀に成立していた。地主に年貢を納めたあとは自由である。土地は地主、領主のものだけれども、領主の所有は名目的なものであって、農民の事実上の土地所有になっている。そういう状態になっている時に貴族の反動として領主側が戦争をふっかける。これはドイツでカトリック旧教に対してキリスト教の新教が現れる時期。ルターが登場し、特に農民の中にこの影響が強い。そしてその宗教戦争の姿をとって農民が闘う。まずはじめにエンゲルスの叙述の概念を頭においてほしい。つまりエンゲルスがここでいっているのはドイツ農民戦争の中で労働者の社会的役割、結合の役割の芽ばえがあるんだと。ドイツ農民戦争の時期の労働者の社会的結合の姿はきわめてキリスト教的姿をとったんだということだ。封建制に対する近世の最初の大規模な衝突として第一をあげてその場合のプロレタリアの結合はきわめてキリスト教的恰好で現れたんだと言ってる。
次の、さらに労働者の社会的結合が発達してイギリス一七世紀のイギリス革命の時期になれば、クロンウェルの革命の時にはやはりイギリスにおいてまだ労働者の社会的結合は宗教的姿をとっていた。キリスト教の姿をとっていた。しかし初期ほど、第一の時ほど強くはない。
そして第三のフランス革命の時期には労働者は全く宗教から決裂を成しとげて現れるということを言っている。
この大きな輪郭をまず頭において、史的唯物論は、そして労働者の階級闘争はいかに宗教をわがものとしつつそれを乗り越えたかと、いかなる闘いをしたかと、読みこむ。
そのことの鋭い核心点は『ドイツ農民戦争』と併読する必要がある。これの言おうとする意味は何か。闘争構造全体で何を言おうとしているのか。ドイツ農民戦争が単なる農民の部分的な蜂起ではなくて、体系だった戦争となっている。そして一六世紀のドイツ農民戦争は最初のブルジョア革命の大規模な蜂起であり、その敗北であった。その上にドイツ絶対主義が成立する。個々の農民の日本でいういわゆる一揆は、不可避的に敗北する。しかしこの時期のドイツでは農民の体系だった戦争になったんだと。何故そうなったのか。
昨日まで農村におり農民としての実直さと素直さをまだ失っていない、しかし土地を失って叩き出されて都市に出た生まれたばかりのプロレタリアートたち。そして都市手工業の中から没落して自分の労働で手工業者として生きていた、そういう誠実さをまだ失っていない没落した職人たち。この二つを挙げて、都市の芽生えたばかりのプロレタリア的要素という。
都市には2つの平民がいた。一方では旧制以来の自分の家族労働の上にしっかり立ってその上に成立している職人・商人たち、それから没落した者と、他方では農村から土地をうばわれてでてきたばかりの者たちと、この二つである。ルーテルは前者を代表した。それに対してミュンツァーは後者の方を代表した。農民の蜂起が都市のこの芽生えたばかりのプロレタリア的要素と結んだ時にドイツ農民戦争になったんだ。全国家権力に対する衝突になったんだ。こういうことである。
これをうけて、日本では戦後、服部之総の系列の一部が、中世の末、一向一揆の時期にこれをみて、そしてその鎮圧の上に成立した織豊政権(織田信長・豊臣秀吉)、この権力を初期絶対主義とする見解が現れて、今では全く否定される。特に六〇年代以後の日本史学の勃興、佐々木潤之介を中心にしてでてくるのは、天皇制絶対主義をもう一回封建制の再編成的に理解する。幕末社会は何であったか、幕末の打ち壊し運動は何であったか。講座派史学は幕末にドイツ農民戦争の本質を見る。そうふうになっている。
結論からいうと中世末の一向一揆こそ日本農民戦争であったと。これによって日本の家、村、町、部落民の歴史、非人とはなにかが全部解明できる。日本史学の史料はそこまできている。しかし結論を把みきれていない。それは講座派史学自身の問題があるということである。
講座派史学二〇年の展開を通して、その主流である遠山茂樹がこう言っている。佐々木潤之介の間違いはエンゲルスの『ドイツ農民戦争』の中にこのように書かれているということを忘れている。宗教のところ、エンゲルスが中世都市の中に芽生えた、芽生えたばかりのプロレタリア的要素、それと農民の蜂起が結合したという、その芽生えたばかりのプロレタリア的要素が自己の力を全力で最大限に結集して、力を発揮して闘いぬくためには禁欲主義的宗教が必要だったんだ。あらゆる現世に失望し、未来を求め、死んでもいい、現世の欲望を全部捨てるというぐらいまで禁欲主義であって、そういうものをもって全力で社会的結合をやってぎりぎりまで全力で闘う。
芽生えたばかりのプロレタリア的要素とは、歴史的にはじめて大量に労働者が生まれ出しかかったその先端の予兆のように現われているんで、ドイツの一六世紀は大量に農村から土地を奪われ追い出されるといういわゆる原始的蓄積の時代ではまだない。原始的蓄積の予告の時代である。しかし、安定した中世でもない。予兆のように労働者が部分的に投げ出されてきている。そういう意味では労働者はわずかである。そして生きるためには貧民になっている。古代的な保護措置のもとで生きている。それを保護するものは、奴隷にしてもいいんだといわれながら。彼らが歴史の中で全力をつくすためには全力で肩をよせあわせなければならない。あらゆるエゴをほんとに禁欲主義的に投げすてて結合せねばならない。だから禁欲主義的宗教をもって現われた。ミュンツァーの宗教をもって現われた。これがプロレタリアの支配階級に対する「歴史的第一決戦の姿だった」。禁欲主義的宗教とは日本でというと一向宗、一向一揆。すべて現世はあきらめる、現世は煩悩によって家族も全部引き裂かれる。これが生身の人間だ。泥棒、人殺し、みんな可能性をもっている。ただひとすじの白い道がある。この煩悩を越えて向こうに、やすらかな涅槃の世界はあの世にある、と。一向一揆は、都市と農村を結ぶところに賤民がいたと、タイシと呼ばれたりワタリと呼ばれたりの賤民がいた。この史料が最近発掘されている。百年に渡る一向一揆、日本型家族形態としての家、それを保護する共同体としての村、町、今日につながるものがみな、この闘争と敗北、その上に成立する、こういう意味をもっている。そういうふうに厳密な宗教としてあらわれた第一の決戦。
そしてさらに労働者の社会的結合が進んだ、しかしまだフランス革命ほどではない、そういう一七世紀のイギリス革命ではまだブルジョア革命派は、労働者を含めて宗教の形をとっている、キリスト教の反対派の形をとっている。そしてフランス革命ではじめて都市の労働者たちは革命的に宗教を向こうにおいて決裂するように闘った。
こういう苦闘を階級闘争の歴史としていかに宗教を内面化し、わがものとしそして乗り越えていったか。恥ずかしがりやの唯物論から実践的唯物論として断乎として自己を主張するようになったか。
この「序文」はそういうことである。こういうことをもって『空想から科学へ』が何かということを理解しなくちゃいけない。それが第二の中心問題。
『空想より科学へ』は、「マルク」という表題の論文が付録としてつけられている。そしてそれはドイツ語版以後イギリス版にも載るというふうになっている。しかし日本では、今ではこれは切り離されて勉強されるし研究されている。
しかし『空想より科学へ』は史的唯物論の擁護のために、である。どうしてもこれを忘れてはいけない、とエンゲルスはその趣旨をはっきりさせるためにということで、「マルク」を付録として、ひとつの独立した書物としての『空想より科学へ』の中にいれた。
何故それを入れたのか。
ドイツの労働者党が都市ではどんどん前進している、しかし広大な農村には人口の半分である農民がいる。そしてその農民は、自分たちの土地をドイツの家族形態としての自分たちの家族の労働で耕す、そういうことで必死に生きている。そしてこの前進していく都市労働者の多くは、長い歴史を通してその背後にある農村からでてきた労働者たちである。何代かをさかのぼって考えればそうなる。
社会主義と言うのは、不断に社会的結合を求めて強化しようとする。農民たちは自分たちの家の土地をもって自立し生きる、ということでブルジョアジーと闘いつつも、労働者の革命に対してはひとつの協力の流れにならない。そういうときに、特に帝国主義段階にはいろうとする時に、アメリカの大農業との競争はドイツに迫っている。ドイツの農民の没落、日々に生活が苦しくなっていく、没落は迫っている。で、どう生きるか。
マルクス・エンゲルスの農業問題でいいますと、最初はマルクスもエンゲルスも農業労働者だけに注目している。農民は保守的であるとして、プロレタリア運動の範疇の中には含めていない。農民を何度も語るけれども、農村のプロレタリアのことをいっている。
ところが晩年になると、マルクス、エンゲルスの農業問題に対する態度は、協同経営、共同体の問題ということに集中していく。そして死ぬ直前の、ロシアについての「ヴェラ・ザスーリッチへの手紙」は苦汁に満ちている。同じことを何度も下書きしているようにみえるが少しずつは強調点を浮かばせる。
そして目の前にあるロシアの「農業共同体」――今、史学では概念として使ってしまっている、これはまちがいで、概念で使う場合は〈土地の共同体的所有と農業と工業の直接的結合とをもった「生産共同体」〉といわなければいけない。「農業共同体」は概念ではない、ロシアの現実を指し示した言葉である――このひどく分解している原始共同体、土地は共有であるが、農耕地の分割地式経営、分割されていない牧野で協同労働。これはどうなっていくか、ということで、「あらゆる側面からそれに襲いかかる破壊的な影響を除去し、そしてつぎに自然的な発展の正常な諸条件を確保してやること」で、「ロシアの社会的再生の支点となるだろう」と。『共産党宣言』の序文で言えば「ロシア革命が西ヨーロッパのプロレタリア革命の合図となり、その結果、両者がたがいにおぎないあうならば現在のロシアの土地共有制は、共産主義的発展の出発点となりうる」、と。
そしてマルクス・エンゲルスの農業綱領は全部、協同経営、土地共有に向かっている。レーニン以後全部農業綱領といえば、公社その他を意味している。
日本でも日本史学は、日本では資本家的農業経営はない、日本の歴史的条件ではそれは不可能であるという。ちがう、今の日本農業と日本農政を分析すれば、日本型のゴリゴリの家の家族形態を通しながら、日本型の資本家的農業経営の道は今はじまった。日本農政が転換をとげる。ただ家族が沈むんじゃない、家族形態をとった日雇い、家族形態を通した血縁関係の形態を通した資本家経営、大規模地主の下の借地農業じゃなくて、三反百姓が農業からはね飛ばされて地主が生じる、これが日本農政、はっきりそういうふうに転換し始める、そういう過程にはいっている。
そういうときに、今こそ、マルクス・エンゲルスの古典的農業綱領の復活がもっとも現実的な日本農民が生きていく輝きの道だ。今、三里塚農民が示している、三里塚闘争の激しいその闘争の中から、一所懸命手探りしながら、生み出したものは、始元的な協同経営。土地の大小を問わない、家つきの畑までだしちゃうすごい姿を示している。日本農民の唯一の生きていく道はこれだ。これならばアメリカ農業と競争したって負けない、という構造を持っている。それと牧畜を結合すれば負けない、そういうところにきている。根本的にはそれは歴史学的現状分析である。
しかし、プロレタリアの歴史観に訴えた。どういうことを訴えたかというと、ここに「マルク」がある、この「マルク」をもういっぺんくりかえす。何がいかなる形で誰に訴えかけられなくちゃならないのかという的確な表現である。
「社会主義的労働者がこのことを知ることが必要である、そして社会主義的労働者が知るということを通じて、農民たちが知ることが必要である。」
労働者が知り、そしてその知った労働者が全部宣伝者となって農民に、農民が知ることが必要だ、俺たちの歴史はこうだった、と労働者全体がそういうことを農民に語っていこうと。
ほとんど運命的にみえる家族の中で生きる農民たち。日本でいえば家を出れば外は地獄だ。そして個人主義はヨーロッパからきたという。ヨーロッパ人がきて、日本ほど個人主義がひどい国はない、びっくりするというぐらい家付き個人主義。こういうものが何度も労働者の団結を引き裂いている。これで足をすくわれている。描象的個人のようになって、そこで団結を語って、あと自分の家のことは個人的に始末しろとなっている。戦略はない。そういうときには、そこから離れたようにみえても、ぼーんとそこへ引き戻される。生きていくためにはその共同性と歴史的共同性でものを考えねばならない、と。
そういう時に、ドイツの農民がこのような状態になっているということは、何年も何百年も繰り返した過程の中だからあたりまえのことだし、永遠にそうであったかのように思うかもしれない、しかし、と。エンゲルスは、そういう没落せんとする中で必死で生きているドイツ農民が、一歩まちがえば、保守反動に抱えられる、そういう時にむしろゲルマンの長い歴史はほんのさきほどまでマルクという共同体で生きていたんだ。土地を共有し、家族の人数が変われば人数に応じて割り替え、死んでいけば少しの土地、多く生まれればたくさんの土地を割り替えし合って、そしてその共同体と協同労働で生きてきた、むしろ農民の長い歴史はそうなんだ。そしてその母斑はさっきそこにもあるじゃないか、と。そしてドイツ農民が今こそ生きていく道としても、協同経営ということから始まって、こういう道があるんだということを知らなくてはいけない。
そして労働者は将来すべての生産手段を共有し、協同労働を全世界に組織する。その中で同じように農民も協同労働を復活することができるんだ。
こういう歴史的〈正・反・合〉、その〈正〉という生産共同体で生きた長い歴史、そしてその中から〈反〉として個体家族と私有財産、自分の土地を自分で耕すという生き方の長い歴史、そして〈合〉、マルクスのザスーリッチへの手紙では「古代を高い次元で復活することができる」と、こういっている。
これこそがプロレタリアの歴史観だ、それで結合のために生きぬいて闘いぬいくんだ。社会的結合はそういうものとしてかならずやこの世で歴史的に結実するんだ。
そういう歴史観を『空想から科学への社会主義の発展』は言おうとしているのだ。エンゲルスを絶対に「科学主義者」にデッチあげてはならない、「客観主義者」にデッチあげてはならない。
(一九八四年五月南部地区研究会レポート)