『賃労働と資本』『賃金・価格および利潤』を読む

     序

 『賃労働と資本』と『賃金・価格および利潤』、この二つを合わせて読むということは、特に労働者自身の学習にとって、形成史も見える、ということで大切だ。全体としては『資本論』にむかって生成しようとする〈プロレタリア経済学〉の輪郭が骨太く描かれている、という性格を持っている。これは『資本論』研究にとってもあまりディテールに拘泥せずに、生まれたばかりの『資本論』の姿を読み取る、という点で大切だ。「プロレタリアート」の学問的な把握、概念的な把握、そういうものを平易に問題にしているということができる。
 この二つのテキストは、マルクス主義の生成史にとっても、ヨーロッパ労働運動の世界史的な発展過程にとっても重要な時期のものである。百年以上過ぎても胸に響くような文献も、ある歴史的な条件の下で人間が如何に生き闘うのか、ということの中で文献は生きているわけで、そういう意味でそれの成立の歴史的位置ということは、いつも踏まえておかなければならない。
 『賃労働と資本』は、一九四八年の二月革命、三月革命の直前の、ぎりぎりの時の『共産党宣言』の発表、それを直接に基礎づけているもので、四七年の十二月のブリュッセルのドイツ人労働者協会での勉強会がもとになっている。そして激動の四八年革命の中でマルクス自身が『新ライン新聞』の主筆になって、弾圧されて、ケルンの裁判に引っ張られる。そうした時期である四九年の『新ライン新聞』に連載される。
 それから、『賃金・価格および利潤』は第一インターナショナルが結成された翌年の春、国際労働者協会総務委員会の討論での報告がもとになっている。『資本論』の初版が六七年。第一インターナショナルが結成されて、ボナパルティズムが崩壊していく、そういう歴史的瞬間にヨーロッパにおいて『資本論』を先取りするように国際労働者協会という場所で、このテキストが現れている。
 この二つのテキストの大きな輪郭について、特にしっかり掴むべき点を、三点について触れていきたい。
 一つは『賃労働と資本』では、「労働力の価値」という完成された表現ではなくて、「労働の価値」という形で現れている。エンゲルスが「序文」で、
「一般読者を目当てとした普通の版では、著作の精神的発展のうちに含まれているこういう初期の立場もさしつかえなく、著者にも読者にも、これらの旧著をそのまま重刷させるあらそう余地のない権利があるということは、自明のことである。そして私は、そのうちの一語でもかえようとは、夢にも思わなかったであろう。
新版がほとんど労働者のあいだの宣伝だけを目的としているばあいには、話はべつである。そのばあいにはマルクスは、無条件に、一八四九年のころの古い叙述を彼の新しい立場と調和させたであろう。そして私は〔今回の新版のために〕、あらゆる本質的な点でこの目的を達するのに必要な少数の変更や追加をおこなうことは、マルクスの精神にしたがって行動するものだと、確信している。そこで、私は読者にあらかじめおことわりしておく。これは、マルクスが一八四九年に書いたままのパンフレットではなくて、ほぼ彼が一八九一年にはこう書いたであろうと思われるパンフレットである」
といって訂正する。訂正というよりも、はっきりさせる。この長い序文の基本的な主旨は、「労働力の価値」というふうに表現されること、そしてこれは単なる言葉の問題ではない、ということで言っている。
 そして、それが『賃金・価格および利潤』では、第七章と第九章、そして最後の第十四章で、それ全体の意味をはっきりさせる、ということで展開されている。これが完成しかかっている『資本論』の先取りした要約にもなっている。
 このことが「労働価値説」として、「価値を労働として掴む」ということから搾取を明らかにするということに普通、理解されている。
 それまでの古典経済学の労働価値説では、「商品の価値とはその商品の生産に必要な労働で規定される」「労働がいっさいの価値の尺度である」「この『労働の価値』も労働で表現しなくてはならない」こうなってしまったと。最後はナンセンスな規定。これにはどういう問題があるか。
 そして、それを「労働者の生産費」ということから、「労働力の価値」というように掴むということで、初めて剰余価値が明らかになる。搾取が明らかになる。こういうふうに掴まれているし、また、そこから出発するということは間違いではない。
 しかし、『賃労働と資本』から『賃金・価格および利潤』に貫徹するように明確な姿をとって現れてくるのは、賃金をもらうことによって自分の労働力を資本家の自由にゆだねる、一定の時間ないしは一定の労働給付をおこなうという義務を引き受ける、このことが持っている深い意味だ。
 つまり、今の問題は『資本論』の端的な要約で言えば、〈搾取は労働に対する支配に帰着する〉。労働力の価値規定をこういうふうに展開している。
 賃金の問題は、搾取の問題として明らかにされなければいけないが、その搾取の問題は労働に対する資本の支配に帰着する。こういう把握が可能になるということは、労働の価値ではなくて労働力の価値だ、と掴むというところにある。こういうように労働力の価値の意味を掴まなければならない。これは非常に大切なところだ。
 そして『賃労働と資本』の中に含まれているものが『賃金・価格および利潤』の中に次第に概念的な姿を取って現れていく、という推進力はここにある。そして『資本論』は明確にそれを概念的に把握したものとして出てくる。これは主として『賃労働と資本』に集中しながら『賃金・価格および利潤』への展望を掴む、それに向かって展開していかざるを得ない、という、そういう輪郭がここに現れているということとして掴む、ということだ。
 第二の点。『賃金・価格および利潤』の中で、賃金を決定する要素としてはっきりと、単なる生理的要素というのをまず一つとしてあげる。人間が自分自身を再生産するための生理的限界のギリギリ、この世に生きるか、死ぬかというぎりぎり一杯の文字通りの生理的要素。そしてもう一つ、それが賃金を決定する場合に重要な役割を果たしているんだと言い切って、歴史的ないし社会的な要素をあげる。これはいったい何なのか。全体としては〈賃金の国民的差異〉といわれている。これは深く歴史的な労働者の存在形態にかかわる。
 各国労働者は如何に歴史的な存在形態をとっているのか。日本の労働者は如何なる歴史的存在形態をなしているのか。こういう歴史的な情勢分析なしにはどんなに具体を百ほどならべようと、法則についての抽象的な把握で終わり、歴史的に現実的な把握とはならないだろう。そして賃金闘争は、歴史的に現実的な闘争として勝利する道を見出すことは理論的には不可能だろう、と。
 それから第三の点。賃金をめぐる問題は、単に資本の先行する運動に対する結果にしかすぎない、原因に対する闘いではない。もし、この賃金をめぐる闘いで労働者が断固たる姿勢をとらなかったとするならば、労働者はいわば敗残者のように歴史の中で投げ捨てられるような状態にまで悲惨な状態になるだろう。そこからはどんな革命的な展望も出てこないだろう。しかしまた、ゲリラ戦に埋没してはならない。それは賃金制度の諸結果に対する労働者の反作用でしかない。〈賃金制度に対する労働者階級の闘い〉、ということを忘れるな、と原因に対する闘い、というのを忘れるな。それを忘れたならば、賃金で猛烈にとった部分的勝利は、一般的敗北に終わるだろう。将来を犠牲にして現在の部分的勝利を獲得した、ということになるだろう。こういう闘争論、これが第三番目の大きなテーマだ。従って、賃金をめぐって闘うということを出発点としている労働組合とは何か、ということが正面のテーマとなっている。

     (一)

 第一の問題の労働の価値における労働力の価値としての概念的把握。労働の価値という形で現象していることのもとに労働力の価値ということを本質論的に概念的に把握する。そしてこのマルクスの叙述の中に出てくるように太陽の回りを地球が回っているのだ、ということを掴むならば、日々、東から西に太陽が昇って沈むということも説明がつく。そういう性格のものなのだ。科学とはそういうものだ。労働力の価値ということは、単なるどちらでもいい言葉の問題ではない。とりわけ労働者の前には明確に訂正のような意味をも含めてはっきりさせなければいけない。概念的な訂正とはいえないけれども、はっきりとした輪郭が浮かぶように叙述を訂正する。
 この点は、特にエンゲルスが「序文」で強調していることなので「序文」に即して進めたい。
 エンゲルスの「序文」で、三点を押さえるべきだ。

 その第一。「序文」で『資本論』を引用し、
「マルクスは『彼の労働が実際に始まる瞬間から、この労働はすでに彼のものでなくなり、したがってもはや彼には売ることができない』という。彼ができることといえば、せいぜい自分の将来の労働を売ることだけだ。いいかえれば、一定の時間、一定の労働給付をするという義務を引き受けることができるだけだ。しかしこれは、彼が労働(これはやっとこれから行われるはずだ)を売るのではない。一定の時間だけ(時間払いの場合)または一定の労働給付の目的で(出来高払いの場合)、一定の支払いと引き替えに自分の労働力を資本家の自由にまかせるのである。すなわち労働力を賃貸し、または販売するのである。しかし、この労働力は彼の人間と癒着していて、引き離すことができない。このため、労働力の生産費は彼の生産費と一致する。経済学者たちが労働の生産費と名付けたものは、まさに労働者の、したがって労働力の生産費のことである。」(『賃労働と資本』エンゲルスの序文)
 こういう叙述になっている。
 これは、かなり正確な輪郭をあげようとしている。つまり、自分の労働力を資本家の自由にまかせよ。工場の中に入って、いざ、これから労働が始まるという時に、以後は、今はこの労働は売られた労働力の資本家による使用である。もう売ることはできない。売れるのは将来の労働力。そして、この労働力は彼の人間と癒着していて引き離すことはできない。こういうことの中に、労働力を売るということは、労働者が労働して生産物を作り、それが商品として売られる。資本家の手のうちから。
 つまり十二時間労働ならば、資本の下で商品として十二時間労働分の価値が対象化されていく。しかし、その労働力自身が再生産されていく生産費としての労働力の価値は例えばその半分の六時間。この六時間は支払われた労働であって残りの六時間は支払われない労働だ。ここに搾取が成立しておる。そこには労働力の価値創造力、自分の価値よりももっと大きな価値を生み出すという力があり、そこに搾取がある。
 こういうことを言っているのだけれども、そして剰余価値の発見といういうふうに普通言うわけだけれども、しかし、今の正確な叙述は何を言っているのか。
 「労働力を売る」ということは、いわゆる労働サービスこれを売るのではなくて、人間の中に癒着している能力これを売るということである。ということは、その状態に入る瞬間から自分は全く他人による労働の支配の下に立つのだ、そういう義務を銭をもらうことによって引き受けている。こういうことなのだ。
 だから『資本論』は明確にこれを表に出して「搾取は労働に対する資本の支配に帰着する」−−賃金とは、そういうものなのだ。これは非常に大切なことだし、賃金論にとって長い間、根底的に掴み返されるという点については、あいまいにされてきた問題だ。
 『剰余価値学説史』の中で俳優についても言っている箇所がある。ある俳優が自分で自分の意志のもとに演技する。それを観客に売る、という場合は彼は自由な労働者である。それは他人に支配されていない労働である、という意味で自由だ。ところが同じ俳優が、俳優たちとして複数で演芸の資本家に雇われて同じような舞台で演技をするような場合には、それは賃金労働である。そして、それは他人の支配の下での労働だ。
 これは医療労働、教育労働についても本質的に言えることだ。医師の医療労働というのも物を作っているのではない。医師の治療という労働であるサービスを売っている。町医者が自分の経営でやっている限りは、自分の意志の下でそれをやっており、そういう意味で自由である。自分の労働を自分で支配している。大病院で雇われている場合は、高級の労働者のように表れても賃金労働者である。資本の下に支配されて、治療というサービス労働を行う。
 教育も同じようにいえる。家庭教師として教えている場合には、その労働そのものを売っている。自分の意志の下での労働。しかし、学校教師として雇われるならば、教育資本の下に支配された労働者だ。こうなってしまう。
 一見したところあたかも家庭教師ならば家庭教師をやる、演奏家なら演奏家が自分の演奏という労働をして、それに対して報酬をもらっているように、賃金も、学校教師の賃金や雇われ演奏家の全くこれと区別がないかのように現象する。しかし何が根本的に区別なのか。そして搾取の原因がどこにあるのかというと、生涯の中の一定の時間を区切ってだけれども、労働を売るのではなくて労働力を売るということの結果、現在同じように報酬を受けるという姿のその中味の本質は、現実に労働の支配、自分の自由を売り渡している、そういうものとして現れる、ということだ。
 そのことは『賃金・価格および利潤』では、労働力について「人間の労働力は、ただ彼の生きた個体のうちにだけ存する」と、「生きた人間の個体のうちに存する」という表現になっている。『資本論』は、「生ける人格性、即ち肉体性のうちに存する能力」。こういう表現になっている。「生ける人格性、即ち肉体性」−−これはすごい表現だ。「生ける人格性」−−そういうものとして現れてくる、労働者は。そういう意味では自分の労働力は自由な形で売る。しかし、売ったとたんに−−売り買いはそういうふうに現れるのだけれども、生ける人格性である、自由である労働者のうちに潜むものを売り、その使用の自由を資本家に委ねた−−義務を負う。
 さらにこのことをもう一歩言うと、若きマルクス、エンゲルスのお互いの協力と一致、見解の一致を掘り下げて確認しようとした『ドイツ・イデオロギー』。その中で無産の大衆、プロレタリアート、それを「世界史的諸個人」、「世界史的個人」として言っている。
 何で労働者が世界史的な個人なんだ。資本家の方が飛び回っているではないか、コスモポリタンとして。世界市場の成立というのは、まず、商品が、そして次には貨幣がそして資本が世界市場的な関連の形で成立した。そういうことで商品が神になり、貨幣が神になり、資本が神になり、歴史的な暗い古い呪術信仰は滅び、新しい神が現れる。そういう恰好で現れた、資本の担い手として資本家というのは出てくる。一番、世界史の動きに対して敏感だし。何で資本家は世界史的な個人ではないのか。何で労働者は世界史的なのか。
 それはやっぱりここに秘密がある。言わんとしているものが、明確な姿をとって現れてきているのは、このことだ。労働力を売るということだ。直接に世界史へ結びついた存在、と説明している。はっきりと経済学的な概念的な把握は、こういう恰好で現れてくる。自分の肉体性、生ける人格性のうちに潜むその能力自身が世界史的な関連の中に置かれちゃった。だから直接に世界史に結びついている。ヨーロッパのどこで労働者がどうなったか、ということが自分の肉体に響いてしまう。賃金が引き下がる、上がる、ということが。アメリカ労働者が後退するなら、日本の労働者が少し浮かんだように見える。だから世界史的な、家族の対立、諸個人の対立の中に置かれている。相互依存と同時に相互対立という文字通りの弁証法の中に置かれておる。自分の存在のうちに潜むものをこういう意味として掴み返さなければいけない。
 そして賃金の国民的差異という場合にも、こういう種類の世界市場の成立と、法則的にはこういう種類の賃金が決まっているということを通して日本の歴史的現実はどういうふうに実現するのか、と国民的な差異を突っ込まないと国民主義的な賃金論になる。歴史を追いかけると国民主義的になる、そうでなかったらボーンと抽象的な世界史論になる。賃金論としては、こういう問題としてもある。
 JCの問題も、そういうふうな世界史的な賃金の決定の仕方、それは労働者が今のように労働力の価値を売る。それは生ける人格性である肉体性の内に潜む能力を売る、ということから賃金は世界史的な関連の中で決定される。本質論的にこういう構造の中に現実に置かれている。それは歴史的な現実。こういうことが賃金として、やっぱり第一の大きな点だ。

 それから二番目に同じ根本的に労働に対する支配に帰着するというところから、自分で作ったものを自分で売るのではない。それは資本家のものになっており、資本家が売るんだ。このことを「序文」で強調している。同じように労働を売っているようにみえて、なるほど芸人というのは自分の支配のもとにある演芸という労働を売っている、これは事実であり、しかし、資本のもとに雇われている労働者は労働を売っているといっても、まったくこれは仮象だ。しかし、自分の労働を売るというのは歴史的には現実なんだ。そして日々現在、小経営者はそういうものとして自分の作ったものを自分で売っている。町医者はそうだ。弁護士なんかもそうだ。歴史の上でこういう人達は現にいる。それは自分の作ったものとして、自分の労働を自分で支配している。この支配している根拠は、その経済的基礎という概念として掴むべきものは、その道具を所有しているということだ。これは、『資本論』の言葉で言うと「自己労働に立脚する私有」と。自己労働、自分の労働なんだ。他人の支配のもとにある労働じゃあないんだ。その経済的な基礎は私有財産なんだ。具体的形態は家族財産、歴史的に現実的な形態は家族労働なんだ。これが二番目の問題だ。

 三番目は、これ全体を貫いて『資本論』の中に尾ひれをはった全体的な輪郭を、はっきりとした姿を現していくわけだけれども、しかし、『共産党宣言』の直前に、それをそれとして基礎づけているこの『賃労働と資本』の成立、『共産党宣言』に向かっていく成立過程として、一方で資本家のもとに富の対象的な蓄積、集積が進行する、他方で貧困が集積する、という問題がある。これについては非常に強い問題意識を持ってマルクス主義の形成過程の出発点で掴んでいる。これは、いわゆる「窮乏化法則」といわれている。そして窮乏化法則は古くなったということで、あの大内力もこれを投げ捨てていっている。そしてそれは絶対的窮乏化の法則ではなくて、相対的窮乏化の法則である、というふうな形で擁護している。やっと現象的に擁護しているだけだ。絶対的に下がるものではないと。マルクスの表現は「絶対的窮乏化の法則」である。ところが日本の労働者に向かって歴史的な流れは生活が向上しているじゃないか、ということで相対的な窮乏化、こういうふうに説明している。そしてそういうことを成し遂げた背景には闘いがあるんだということで労働組合に入れるわけだ。
 しかし、この全体が労働組合論にもなっているが、労働組合については、そんな膨大な力を言っていない。やっとせいぜいの所、賃金の価値を維持する、という所に止まっている。それ以上のことは、部分的一時的にしかやれない。にもかかわらず労働組合は、不断に広がっていくのはどうしたことか、その秘密はどこにあるのか、ということになっている。マルクスの例えば『神聖家族』にしたって、「一方における対象的富の増大、他方にある文字通り貧困、堕落も含めての堆積」とこうなっている。あのサルトルも、これに喰いついている。貧困のみならず堕落といって何で革命が言えるんだ。マルクス主義について挑戦している。サルトルはここをあげる。マルクス主義はどう答えるんだ、と。

 しかし、ここで言っているのは法則の理解だ。絶対的に貫徹していく法則であり、現象的な法則じゃない。東から西に太陽が昇って沈むという現象の背後には、太陽の回りを地球が回っているんだということで、法則を初めて掴むことができる。そして、この法則としては絶対的に貫徹しているんだ。労働力の価値というのは、そういう世界史の概念的な把握、そういう種類の本質論的な概念的な把握なんだ。そのことが端的に現実を解明する鍵なんだ、というふうに示しているのが労働者の職場支配という問題だ。その現実だ。そして労働組合は何であって、何にならなければならないのか、という闘争論の本質論から掴み返していかなければならない問題でもある、ということになっている。
 その中でエンゲルスが最後の所で要約的にだが、階級差別のない将来社会について語っている。革命への必然性、将来社会への展望。階級差別のない社会へ、新たな社会へ。はっきりここで階級差別と言っている。さらに、これは『ゴータ綱領批判』の中で「階級差別の廃絶を」というように出てくる。階級の廃止ということは、あらゆる身分差別や男女差別や人種差別などの廃絶の根本的な道でなくてはならない(そのことを歴史的に掴み、その原因をはっきりさせ、それを抽象に流さない、ということのためには、私有財産と家族が解明されて、労働力の価値を形成する単なる生理的な要素の他に歴史的または社会的な要素、そこで今の問題をもう一歩現実的に掴む、ということで触れたい)。
 今、述べたように、エンゲルスの「序文」の最後のところにそれがきているという点が大切なことで、勿論偶然的なことではないんだ。ヘーゲル批判から、始めは哲学の批判や政治の批判などを通しながら、要するに疎外ということ−−対象的な世界がますます増大していけばいくほど、つまり人間の外の世界がますます増大し威力をふくらませていけばいくほど、人間がますますみすぼらしくなる−−を掴む。これは宗教批判にもなる。本来人間の力であるにもかかわらず、人間とはちがう神がふくれあがって、神のものとなっていけばいくほど、人間一人一人はますます貧しくなっていく。そういう理論的苦闘を通して経済学的にガンと経済学批判でこういうふうに掴んでいるのであってマルクスの経済学批判のいわば魂‥‥そういうことの中にヨーロッパ史全体を貫いた人類史、宗教学の歴史、哲学の歴史ということに対する批判としての歴史観でもある。対象的富の増大、人間一人一人がますます貧しくなる。それはあらゆる意味でそうなんだ。そういう苦闘を経済学批判の中に貫徹している。そういう問題だ。
 それでは本質論というものがただ抽象的にあるだけなのか。現実的には日本をみたって、現在の女性労働者がどんなに大変な状態にあって男と女の賃金差がどんなに隔絶しておろうと、あの明治の『女工哀史』の女工とは違うではないか。これをどう説明するんだ、何か抽象的な一般論で本質的な法則といっただけではないか、こういうふうに思われるかも知れない。これは賃金論の一つの陥穽だと思う。そして労働組合は何をなしうるかという自己評価についてのある種の大きなブレだと思う。第一のテキストから第二のテキストを貫いて明確に展開しているのは労働組合は何ができるかであり、マルクスはウェストンとはどういう意味で根本的に一致するのか。いっているのは労働組合は基本的には労働力の価値の維持であってそれ以上のことはできないということだ。
 今の問題はすでにこの中にはっきりと現実的な姿で答えられている。それは何かというと、労働者が少しでもましなような状態になる場合、生産力の厖大な増大があるんだと。資本家の元への厖大な富の蓄積が進行しているんだと、そして機械と分業の厖大な発展があるんだと、その時にはある一定の時期、ある一定の地方においては賃金は騰貴している。それなりにましな状態になる、ひどい状態ではないという程度だ。こういうことを意味するのであって、先ほどの現実的な経済学批判として経済学的に掴もうとする労働力の価値規定からすればはっきりしていることだ。日本の百年を通じた資本家の手の下での厖大な生産力の発展、そういう生産力のもとでアメリカと対等に競争するところまできている。それにひきずられて労働者の状態もあがっているんであって、全然労働組合がそんなことをやっているんではない。労働力の価値規定の貫徹、現実的にはそうつかまえる。
 だからこれを裏返しにすると、全く幻想的な労働組合論ということだ。実際は資本の力によっているにもかかわらず労働組合の力だと幻想を持つ。だから実質はいつも資本だ。資本に協力する、そのうえで日本の労働者の生活の向上はあるんだ、というところを根底でやられる。そういう賃金論になっている。
 今のように現実的に社会的な関連でどこどこのああいうような悲惨な状態というのは賃金にひびいているんだ。厖大な人口がヨーロッパに流れ込んでいる。あらゆるところで賃金を引き下げている。しかし対照的に先進国での資本の元での対象的富の蓄積というところでは対照的に賃金が上がっている。上を知らぬかのように。現実の本質論的な把握である。そういう問題として最後の問題はある。
 そしてエンゲルスは決していわゆる平面的な経済主義者ではない、客観主義者ではない。労働力価値規定の抽象的な説明の中に労働力を売るこということがもっている現実的な本質的な歴史的な意味を掴みとっている。それは賃金論としてもはっきり掴まないかぎり賃金論自身が成り立たない、本質論的な概念的な把握にならない。そうでないと科学にならないし、現象的な統計的な追い方に全部屈服する、そういう根拠にもなっている。

     (二)

 第二の問題は、労働力の価値規定。その労働力の価値規定という中でとりわけはっきり掴まなくてはならないのは、二つの要素の単なる生理的な要素とともにもう一つ歴史的または社会的な要素。こういう領域が『賃金・価格および利潤』ではむしろ『資本論』よりも端的にその輪郭が分る。『資本論』では労働力の価値規定は「ある歴史的な精神的な要素を含んでいる」こういうのがでてくる。ここでは単なる生理的な要素に対比して歴史的または社会的と、そういう整理をしている。二年後に『資本論』の初版はできるんだけれども、発表としては先取りして発表される形になっている。そういう時に端的に分る表現になっていると思う。この領域が第十四章だ。「資本と労働との抗争とその諸結果」という最後の章だ。第七章が「労働力」、そこで労働力の価値を規定する。そして第八章の「剰余価値の生産」そこで搾取ということをこの労働力の価値を通して説明しながら又もう一度、九章「労働の価値」、そこへ返っていく。そして資本と労働の闘争とその諸結果にかかわるように、もう一度労働の価値規定を要約する。
 そういうことに入る為には、労働力の価値規定についてその単なる生理的な要素ということの内に理解すべきだと三つあげている。特に第七章、これはそれとしてきちんと押さえなければならない。
 生理的な要素というのは文字通りある個体の−−ここの読み方だけれども−−その人間の生きるか死ぬかというギリギリの、最低限のその水準だというふうにたてると、それは正しくない。生理的な要素というのはやはり三つで押さえなければいけない。
 一つは自分自身の維持に必要な生活必需品の量だ。労働者自身の生活を維持する為に必要な費用だ。生きている個体の維持。それから二番目は自分自身の維持に必要な生活必需品の量の他に一定数の子供−−生殖・繁殖−−を育てあげるための生活必需品の一定量、つまり養育費だ。これも単なる生理的な要素の中に概念的にしっかり掴んでおかなければならない。人間は生き、死んでいかねばならない。そして三番目に自分の労働力を発達させ、一定の技能を習得するために、さらにある分量の価値が費やされなければならない。いわゆる教育費。これも単なる生理的な要素に含まなければならない。なんでこんなものを生理的要素だというのだ。現在の教育をめぐる闘いは瓦解すると。むしろこれは文化的な要素や道徳的な要素であるというふうにだけ理解すると。どうしてかというと、この叙述をずっとみると、すぐにプルードンの賃金平等主義批判だ。
 本来的に労働力には種々の質があるんだ、その労働力の種々の質によって生産費が全部違う。従って、全部の労働者が同じ賃金だといったら幻想だと言っている。これが資本主義の社会だと言っている。労働力の質の差異というのは、その人間の個体のそういう能力を含めた生理的な要素をめぐっている。こういうことを生理的な要素の概念の内に掴んでおかなければならない。そういうものとして人間の生き死ににかかわる。
 どうしてかというと人間の生ける人格性すなわち肉体性という表現になっているその内に潜む能力だから、そういうところに根をもった労働者の労働力の価値の差異だから、こんなものを幻想的に資本主義の下できれいさっぱり平等になるだろうといったら、それは理論的に誤謬であり、実践的に反動であるといっている。賃金制度という根本原因の廃絶をぬきにはありえない。
 労働力の価値を形成する二つの要素のうち、たんに生理的な要素をこう把握したうえで二番目の要素として『資本論』が「ある歴史的な精神的な要素」といっているのを、こちらは明確に「歴史的または社会的な要素」といっている。それについてイングランドの例で、「イングランドのいろいろな農業地方における平均賃金はそれらの地方が農奴制の状態から脱出したときの事情のよしあしに応じて今日もなお多かれ少なかれ違いがある」としている。農奴制がなくなり自由な自営農民が現れて、その農民から事実上の私有財産になっている土地を奪う。これが原始的蓄積あるいは本源的蓄積だ。そういうところの歴史的尾をひっぱっている。当時の事情のよしあしに応じて今日でもなお異なっていることを示している。地方的賃金さえもが。

 今のことは厳格にはこうなっている。第七章の「労働力」をうけて、原蓄について、『資本論』を先取りするように要約している。
「市場には、土地や機械や原料や生活資料−−これらのものが、自然のままの土地を除けばすべて労働の生産物である−−を持っている買い手の一組があり、他方には、単なる労働力すなわち働く腕と頭との他には売るべき何物も持っていない労働力の売り手の一組があるというこの奇怪な現象はどうしておこるのか。一方の組は利潤をあげて自ら富むために絶えず労働力を買っており、他方の組は彼らの生計をうるために絶えず売っているというこの奇怪な現象はどうしておこるのか。この問題の研究は経済学者が先行的蓄積または本源的蓄積と名づけているが、【 /#】ンカツし本源的収奪と名づけられるものの研究になる。われわれは、このいわゆる本源的蓄積と名づけられるものが、労働する人と彼の労働用具との間に存在する本源的結合の分解をもたらすところの一系列の歴史的過程を意味するに他ならないことを発見するであろう。しかしこうした研究は私の当面の対象の範囲外に横たわっている。」
 この表現からすれば、賃金論としては横においていいというふうにみえるかもしれない。しかしよく読んでみれば、その次に、「さて、ひとたび労働する人と労働用具との分離が確立されるとこのような事態はそれ自身を維持し、かつ絶えず拡大する規模でそれ自身を再生産し、かくてついには生産様式における一つの新たな根本的な革命が再びそれを転覆し、一つの新たな歴史的形態で本源的な結合を回復するに至るまではやまないのである。」、と。
 ここで問題にしているのは、ひとたびそれが確立して労働者が働けば働くほど一方で資本が膨大に発展してしまう、資本家の手のもとに富が蓄積していく、それに対して労働者はますます貧困になっていくということだ、局所的一時的ではなくて世界史的に見れば。こういうふうにいったん資本関係が成立したというところから掴んでいるわけだ。
 そういう意味では当面の問題ではないが、しかし過ぎ去った遠い過去としてあるのかというと、そうではない。ボンとここで「イングランドでは」と出てきている。つまり現状分析の中にいるんだ。そのことは、イングランドでは各地方の地方賃金が農奴制の状態から脱した当時の事情の良しあしに応じて今日でもなお多かれ少なかれ異なっていることを示している。だからさきほどいった原始的蓄積それ自体を取り扱うのはここでの範囲外であると。しかし賃金についての現状分析中にはこのことを掴んでおかなければならない。それ自体はここでは展開しないが、とこうなっている。
 それは遠い過去、過ぎ去った過去においてない、現状分析として必要なんだ。賃金論として必要なんだ。こういうことをいっている。しかも「この歴史的または社会的要素の果たす大きな役割」という形で表現がある。
 歴史的または社会的な要素ということで、本源的蓄積、原始的蓄積、労働する者がその労働する手段から歴史的に分離されていく過程、大量に賃金労働者が歴史的に生み出されていく過程、各国における労働者の歴史的存在形態として掴むべきもの、これは賃金論にとって大きな役割を果たしている。そういうものとして掴まなくてはいけない。
こういうところに女性の賃金、部落民の賃金、障害者の賃金の歴史性を含めて理解されなければならないものを含んでいる。
 日本の労働者の歴史的存在形態として日本における原始的蓄積はいかなる日本型あるいは日本的な形態をとって進行しているか。そういうことから一九三〇代の敗北において、何が戦略的にたてられていなするかったのか、そういう生ける戦略、生けるマルクス主義という問題としてこの問題を考えていかなければならない。
 日本の労働者の歴史的存在形態の具体的な典型的な姿はその失業者の存在形態でしめされる。そして、当時の失業者の数は数十万から数百万の開きがある。では経済学的にはどれが正しいのかということではなくて、そういう開きがあるということ自身の中に、日本の労働者の失業の形態と歴史的存在形態が示される。
 だから、厳密に統計的にとろうとしたってやっぱり数十万から数百万のそういう開きを示すだろう。
 つまり、他人の家族に寄生してその世話で、一見それの血縁ではないがそれに似せて、世話になる。だから仕事があるかのようなないかのような、町工場で働いているかのようなないかのような、サービスの領域を含んだ家内労働であるかのようなないかのような。しかし一家である。身内である。内と外に対しては内だ。そういう恰好で家族、日本型家族形態である家に寄生して、なんとかかろうじて生きている。
日本の原始的蓄積は村ごと家族ぐるみたたき出されるというヨーロッパ、ドイツやフランスの半分くらいで進行した形をとっていない。全部農民という家族があって、たたき出されていない日本労働者の存在形態は。しかし日本の労働者は現実的な家族は解体しているといわねばならない。家族というものがあるように言ったらうそだ。現実的に日本の労働者では、家族は解体して今や本来の家族はないんだと。アメリカの労働者も、どこもみなそうだと。家族などないんだと、事実は。
しかしファシズムは必死の最後の、家族の復興の運動なんだ。
家族、私有財産、宗教、秩序−−徹底的に解体しているからこそ徹底的にそこで生きようとする。
しかし現在にある将来とは何か。それは都市労働者がなんとか苦闘の中で団結、社会的結合の努力として本質的歴史的遺産として労働組合の中にもっている。捨てちゃならない、しかしそれを根拠地としてその改造に向かわなければならない。そうでないとファシズムはそこを押える。あらゆる福祉政策でそこを押える。この大東京の中における歴史的な町の中での労働者たち、そこに労働組合はない、日本労働運動は手を延べておらない。忘れている。
 ましてや農村人口は十パーセント前後になった。まったく忘れている。労働者以下の生活をしているのはいくらでもいると。何がみんな労働者はビンボウだと。賃金論は現実に、そういうことを踏まえていない。
 全力で日本の労働者の歴史的存在形態を掴む。そこで日本の労働者の日本史を総括する。そして講座派に歪められている日本史観をプロレタリアートのものとして確立する。それも現状分析の歴史学として確立。『資本論』は現状分析としては、そのままでは抽象論だ。いくら具体例を挙げようと。歴史的に現実的というのは資本の法則が何を解体しようとしているかを含まなくてはならない。それは『資本論』の法則からは演繹されない。

     (三)

 結論として、原因に対する闘いを、と最後に展開している。
 賃金をめぐる闘いは先行する資本の運動の結果でありその反作用である。その意味があり、しかしそれにしかすぎない。その意味があるということをウェストンに対しては反駁している。ウェストンは賃金闘争はしてもムダだ、だから労働組合はムダだと言っている。だから言葉をきわめてそれはまちがいだと反駁している。この表現では、かれらがこの闘いをもし放棄したとしたならかれらはみな見放され、見放されてしまった敗残者の群に堕落してしまうであろうと。ここからは何の革命もないであろうと。将来を切り拓いていく労働者がこんなみじめな恰好で自分が再生産できない。自分の将来の世代の子供も育てられないというふうになって何の革命があるか。歴史は終わるだろうと言っている。だから断固たる闘いが必要なんだと言っている。
 資本との日々の衝突において臆病に退却するならば、何かもっと大きな運動をおこすためのかれら自身の能力を失うにちがいない。全体をよく見ながら単なるはねあがりでなくて、引かなければならないときは全体で引いていく。賃金が上がるばかりでなくて下がって、それ以上に全力で組合費を払っている、不思議なことだ。それは賃金を維持するためというのが出発なんだが、社会的に結合して将来闘うための戦費をなんで惜しかろうと言っているわけだ、労働者は。
 なるほど賃金は価値以上の維持はほとんどできないであろう。にもかかわらず自分の労働力の生産費の中から削られるだけ削って団結費を払っていると。戦費がなんで惜しかろうと言っているわけだ。そういうのを忘れれば全部惜しくなる。もしゲリラ戦に埋没しているとするならそれは一般的敗北である、将来を投げ捨てた。どんなに戦闘的なゲリラ戦でも。だからウェストンは正しいと言っている。賃金平等主義者は言う、どんな労働もみんな平等、一日の公平な労働は一日の公平な賃金をと。幻想を言うなと、賃金制度の廃絶なしにこれはないんだと。労働力の価値の差異によって現実に違うんだと、今のあらゆる賃金差別はそうだろう、幻想を言うなと。労働組合は根っこの出発点を掴め。そして原因に迫ろうと言っているんだ。
 しかし賃金闘争は、それなしには革命もないほどに意味があると言っている。敗残者の一群にたたき込まれて、何の革命があるのか。疲れはてて、一日の労働に疲れはてて、何の教養も身につけられなくて、何の革命があるだろう。子供をひーひー言わせて何で革命があるだろう。
 賃金闘争は革命にとって断固として必要である。にもかかわらず原因に迫らなければならない。
(一九八四年一〇月南部地区研究会レポート)